大須浜の人たちに、今なお受け継がれている、口伝によれば、奥州藤原氏が滅亡する文治5年(1189年)、
平泉を追われ、落ち武者として大須浜に辿り着いた、切り開きの五軒とよばれる旧家によって浜が開かれたとされています。
ただ、これらの五軒は、あくまで言い伝えによるもので、定かではありません。
「延文5年(1360年) 藤原俵部」
宮守の一族である、佐藤家の墓に刻まれた碑銘が、大須浜の最も古い記録です。
14世紀初頭あたりが到達し得る大須浜の具体的な歴史のはじまりです。
写真:切り開きの五軒が最初に住んでいたとされるエリアの現在の姿
切り開きしたといわれる五軒は、現在も家が継承され続け、
この五軒の本家から分かれた別家により、大須浜の中心集落の大半が形成されました。
人々は、少しづつ、少しづつ、集落を切り開き、
力を合わせて浜から石を運び、積み上げた石垣の上に、家を建てていきます。
写真:今も残る石垣
江戸時代には、廻船商人「阿部源左衛門」を中心に、海産物を積んで江戸まで運び、富を築きます。
経済的に豊かになっていった浜では、多くの別家が出され、集落が爆発的に拡大していきます。
天保年間には凶作によって、多くの人々が飢えで苦しみました。
しかし、阿部源左衛門が私財を投じて、浜の人たちを救済するとともに、荒れ地を開墾し、畑をおこしました。
浜の人々は、阿部源左衛門のこの行いに、とても感謝し、浜甚句が歌われました。
「仏様より神様よりも、大須の旦那が有難い」
現在、大須浜の7割以上も阿部姓がいるのは、阿部源左衛門に助けられたことへの御礼として、
血縁関係になくとも、阿部姓を名乗り始めたことが関係しています。
現在の集落の中心部は、明治時代までに別家に出された「旧家五十五軒」と呼ばれる家々によって原型が作られています。
切り開きからこれまで、大きな災害にあうことがなかった大須浜は、持続的に集落の仕組みが受け継がれており、
三陸漁村の伝統的な姿を現在にも残す、非常に貴重な漁村集落です。
図:旧家55軒デザインサーヴェイ
集落内には、多くの古民家が今も残っており、中には、江戸時代に建てられたものもあります。
変化の激しい漁村集落において、これほどまでに文化的価値の高い民家が残っていることは、全国的にみても滅多にありません。
また、旧家の神棚は豪華な作りとなっていて、かつての繁栄を思わせます。
写真:古民家の内部空間1
写真:古民家の内部空間2
写真:旧家の神棚