海と山へ、祈りが奉げられます。
文久3年(1863年)、廻船商人である阿部源左衛門によって、江戸深川で作られた神輿が大須浜に持ち込まれます。
それから150年、浜では絶えることなく担がれ続けてきました。
「チョーサイ」「ヨーサイ」の掛け声とともに、集落の中を歩き、神輿は浜へ。
左右に動かし、回転しながら担がれる神輿は、大須浜の荒い波や海を表現しています。
写真:境内で荒々しくもまれる神輿
写真:集落を練り歩く
また、神社に奉納されている阿部源左衛門ゆかりの品々は、源左衛門家を中心に、その別家たちによって運ばれます。
浜へ着いた神輿は、八大竜王の祀られる、きつね(ちずり)島へと運ばれます。(震災で石碑は流されました。)
現在は、震災による地盤沈下の影響で、見ることはできませんが、元来旧暦3/15は大潮の日と重なることが多く、
海水が引いた、岩場の上を歩いて、きつね島へと運んでいました。きつね島では獅子舞が奉納されます。
写真:海水が完全に引いた岩場を神輿が行く
写真:獅子舞の奉納
獅子舞の奉納が終わると、神輿は再び、浜へ。
六尺(担ぎ手)たちは、神輿を担ぎ、海へ入ります。
写真:神輿海中渡御1
写真:神輿海中渡御2
写真:神輿海中渡御3
海中渡御を終えた後も、神輿は続きます。
現在は、大須の南端にある宇島漁港、大須小学校、大須の北端へ行った後、
大須の青木地区から、寺の坂を下りて、神楽が行われる宮守の家へと向かいます。
写真:宇島漁港
写真:寺の坂を下りる1
写真:寺の坂を下りる2
写真:宮守の家でもまれる神輿1
写真:宮守の家でもまれる神輿2
神輿渡御を終えると、神楽の舞台前に組まれた台の上に、神輿を休ませ、雄勝法印神楽の奉納を始めます。
かつて桃生地方(石巻北部エリアの旧呼称)には桃生十法印と呼ばれる、羽黒派修験が置かれていました。
雄勝には大浜「市明院」の千葉家、雄勝「金剛院」の小田家、大須「大性院」の阿部家があり、
この3つの家に雄勝法印神楽は継承されてきました。
法印神楽は、修験者の祈祷の舞でありましたが、江戸時代に入ってから、次第に民衆向けに芸能化されてきたと聞きます。
現在は廃絶してしまっている大須の「大性院」が、いつごろから開かれていたかは定かではありませんが、法印の墓を見ると、11代妻の没年が寛政6年(1794年)であることから、一代20年と少なく見積もっても、室町時代後期まで遡れます。
「雄勝法印神楽」は国の無形重要民俗文化財となっていて、修験の文化を現在に残す、貴重なものです。
写真:昭和26年
写真:湯立の神事
写真:法印神楽1
写真:法印神楽2
写真:法印神楽奉納時の宮守家の庭先の様子