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令和5年度春季例大祭

コロナ禍のアイドリング期間を経て、4年ぶりに大須浜にて春季例大祭が行われました!

今年は整備が完了した灯台も神輿渡御のコースに含めて巡行しています。

 

久々の開催もあってか、神楽終了後の宮入(神社に着いてから)が非常に長く、担ぎ手としてはいつ終わるのかと運動不足も重なって息も絶え絶え死にそうでした。

やっぱり祭りはいいものですね。

 

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コメント: 15
  • #1

    小野寺長生 (日曜日, 08 10月 2023 12:55)

    大須のお祭り懐かしく見せてもらいました(感謝)
    時代はもうしっかり昔と変わり灯台に神輿が上がる時代感激です。
    さらに時代流れとは言いながら
    ネットで故郷を見れる時代とは便利になったものです。
    故郷をネットで紹介してくれた西山さんにも感謝です
    さらに灯台までのお神輿を上げることが出来たのは、ひとえに市会議員の阿部久一さんの道路に対してご尽力して予算獲得の賜物と皆さんとともに感謝したいとですね!
    ありがとう・・・

  • #2

    小野寺長生 (日曜日, 08 10月 2023 13:24)

    歴史の好きな元大須の高齢者のじい様です。
    何方か大須の切り開き人5軒(人)又は、7軒説に付いての情報をお持ちの方で小さな情報でもいいので話を聞かせて欲しいです。
    故郷の事を調べています。
    宜しくね!

  • #3

    小野寺長生 (月曜日, 09 10月 2023 05:07)

    大須の事
    お祭りと言えばお神輿です
    お神輿と言えば阿部源左衛門ですよね!
    源左衛門と言えば江戸時代にあった経済飢饉です。
    天明の飢饉・天保の飢饉がありますが、俗にいう大須部落の天保飢饉に対して源左衛門は私財を持って部落民を救ったという話はあまりにも有名です。
    おかゆ与えて飢えをしのがせ部落民を救済してくれたそうです。(感謝)
    このくだりを阿部利徳氏がおそらく口伝によって今に伝えているものと思います。
    さらにお神輿の寄贈も源左衛門の贈り物であることは間違いないと思います。
    で、そこで「おかゆ」の話と「神輿」の寄贈人物が同じ人物かという問題です。
    実は調べてみました。
    俗にいう部落民救済と神輿寄贈した人物が同一人物(4代目)と思っていましたが、どうも違っていて神輿の方は5代目になってから江戸から来たようです。
    飢饉救済は時代が合うとしても神輿が大須に来たときは4代目はこの世にいません。
    よて5代目の事は良く分かりませんが、時代を追うとそうなります。(時代の検証数字は長くなるので載せません)
    今はネットで1~4代目までは分かる様になっています。
    しかし4代目の生まれは分かりましたが死亡年代は不明とありましたが、近年母屋解体時の建設年代が分かり建設から2年後に死亡とありましたので、そこから割り出しをかけ死亡年代推測結果生まれと生きた年数割り出すと死亡年代が判明よって、ここから神輿の話の年代と繋がり、めでたく話が繋がりました。
    5代目源左衛門はいたのかいなかったのかはこれからです。
    何分にも無学の歴史好きの爺様の遊びですので至らない点は笑ってご容赦ご勘弁です。
    またね!・・・・



  • #4

    小野寺長生 (月曜日, 09 10月 2023 17:03)

    大須の事
    歴史好きの爺様またやって来ました。
    先のコメントで阿部源左衛門の年代に付いて述べましたので、補足として年代を載せます
    4代目の生まれ:1773年(安永2年)注・ネットより、死亡が:1838年(天保8年)となります。
    生存期間が66歳と在りましたが、
    死亡年月なしです。
    しかし、(ここからは私の調べて推測です)
    死亡年代1838年(天保8年)
    これは阿部源さん家の建て替え建設のため旧家解体時に家の建築時の年代が記された板が出てきており築年日が解り死亡年月が分かりました。
    家建て替え後2年あとに死亡していたことも判明(ネット)
    建設1836年(天保6年)そしてお神輿が年代が1863年(文久3年)となります。
    故に5代目が必要になりました。
    5代目の名前は分かりませんが、もし源左衛門を名乗っていたとしたら神輿は5代目に来たことになります。
    少しわかりずらかったと思いますが、おおよその年代が判明したと思います
    今回はここまでにします。
    またね!・・・


  • #5

    小野寺長生 (火曜日, 10 10月 2023 09:27)

    大須の事
    第5弾です
    聞いて下さい。小さな話をします。
    大須には大きな話でいえば歴史始りは何時頃なんだろうと歴史をかじる者にとっては疑問がわいて来ると思います。
    しかし、小さな昔の魚村にそんな歴史を調べる古文書などは皆目残ってはいないと言うのが実情です。
    仮にあったとしても(一部断片的なものが残っている様ですが)我々のような学識のない庶民には解読は無縁です。
    専門的な知識は別にして、町の一般庶民が楽しみながら歴史を探るというのも楽しみの一つです。
    そー言う訳で墓や神社仏閣など尋ね、さらにネットなどを使い検索し調べています。
    少し脱線した感がありますが、
    やはり、何時ごろから大須は「阿部です始まったのだろうと疑問が湧いてきます。
    今日は其の事には触れず、次に大須と言えば苗字に「阿部」が多い(7~8割)方「阿部」です。(余談ですが石巻地区も多い)割合はちょっと忘れてしまいましたが、その大須の阿部に付いて一説には源左衛門に飢餓で助けられた部落民が阿部を名乗ったと言う事が大須の元町会議員の阿部利徳さんがそのくだりを伝えています。
    藤原の阿部に関しておそらく文献ではなく口伝の伝承ではないかと思われます。
    さて今日の「阿部」の話ですが、そんな話のある中で大須の始まりの中で奥州平泉の藤原対源氏頼朝の奥州征伐に敗れた安倍氏の落ち武者が追悼を逃れるために阿部に換えて大須に来たという説です。
    (ここから話は複雑になってきます)ゆえに簡単に藤原と安倍氏の関係を触れておきます。
    藤原初代の秀衡の母親が安倍氏でした。
    個々の下りは話せば長くなりますので安部の関係はここにあるという事だけにします
    大須に落ちてきた阿部氏は本当は安倍しではなかったかというのが私の見方です。
    では何をもって言うのかと言えば実は本日のメーインはここに在ります。
    おそらくほとんどの大須の人達も知らないと思います。
    歴史の証言は古文書や石碑等の碑文などから解き明かされるものと素人爺様は考えております。
    在りました。
    誰でも神様に祭るものに対しては嘘は付かないと思います。
    ところで、そーあったのです。
    安倍の小さな石頭がありました。八幡様の境内に確かに刻まれた文字は安部でした。
    大きな碑でもなく塔婆でもありません。
    石頭と言って良いのでは・・・石の祠と言えばいいのかは確かな呼び名は分かりませんが在りました。
    何時ごろのものかの確認はしないでしまいましたが、安倍文字が刻まれていました。
    これは安倍氏の証拠になると思います。
    確かに安倍氏は来ていました
    いつの日か大須に行ったとき確認調べたいと思います。
    もう年齢が高齢になり免許も返納し足がなくなり大須に行く機会がなくなりましたが、近々にまた行ってみたいと思っています。
    今日の話はここまでに・・・・
    またね!


  • #6

    小野寺長生 (水曜日, 11 10月 2023 10:44)

    大須の事
    お邪魔します。
    今日は切り開き人5軒の話をしてみたいと思います。
    先ず最初に謝って置きたいことがあります。
    それはパソコンの打ち込みです
    爺いは高齢でパソは指一本でコ
    トコトと打っています。
    故に抜け字誤字が多くありますが読み上手でご勘弁お願いします。
    さて、切り開き人5軒ですが、7軒とも言われています。
    5軒説はネットの方では1198年
    となっていますが、もう少し早いような気がします。
    建久1190~1198年義経が衣川で敗れ1189それから落ち武者が始まるとすれば建久の早い時期に落ち延びて来たと思われるからです。
    それから7説ですが、これは室町時代に入ってからではないかと思います。
    ある意味では大須の部落の切り開き人に該当するのではないかとは思いますが、この説は口伝によるものと思いますが、情報の出どころは、私か聞いた人は(後輩の阿部智次氏からです)氏の家も古いのですが、調べた所では年代は100年ぐらい浅いようです。
    さて、5軒の家ですが年代がはっきりしているのと5軒の家の並べ方で(屋敷の陣取り)5軒のコラムの形成から、次の5軒を推測しました。
    さらに5軒を一応並べますが、順序に付いては少し悩むところもあります。
    最初は
    佐藤家(宮守)当家に付いては色々と別に話があります
    阿部定男家(かばだ)
    阿部八男家(当家は後ろの方に下がっています。現在は藤井家がありますます)
    阿部徳四郎(かばだの後ろが別家の阿部彦五郎でその後ろです最後に下の家
    阿部清志家です(前が橋本家ですが、清志家に付いては非常に迷いました)当時情勢はどのような順序で当部落に入ったのか?また一諸に入ったとしても屋敷の割り振りなどがどうであったかなどわかる由もありません。
    推測すれば侍の地位や最初に話を出した人が海と水の利用価値を見出して順に決めたと思うので推測してみました。
    こまで累々述べてみましたが、宮守に付いてはもう少し話ししてみたい所もありますし、また源左衛門に付いても5軒の絡みで話ししてみたいとも思っています。
    続きは次回ね!
    今日はここまで・・・
    又ね!

  • #7

    小野寺長生 (日曜日, 29 10月 2023 14:00)

    こんにちは、今日も又遊びに来ました。
    大須の阿部一族の中に在って佐藤家(宮守)はどんな繋がりがあったのかと調べてみました。
    おそらくですが阿部一族の落人と一諸で佐藤家も入っていてもおかしく無いという事が分かったのです。
    義経が関東に上っていく時に清衡は佐藤兄弟をお供に付かせ義経を守らせた。
    佐藤兄弟の佐藤継信・忠信は清衡の子供乙和子姫の子供であったからです。
    こうして昔話を知ると切り開き人に佐藤家が入っていても不思議ではないのではと爺いは思ったりしています。
    おしまい!・・・

  • #8

    小野寺長生 (日曜日, 29 10月 2023 14:28)

    お詫び訂正です
    no 5番藤原の初代だ名前が誤っていました。
    初代は清衡です。訂正
    秀衡は3代目でした。

  • #9

    小野寺長生 (火曜日, 31 10月 2023 07:00)

    またまたやって来ました。
    大須を愛してくれる人がいてせっかくこういうコメントを書くスレット作ってくれているのに空欄のままでは一寸さみしい気がしまして、またコメントを書こ事にしました
    さて、大須には案外庶民レベルの歴史に残るような話は一っぱい結構あります。
    が、しかし余メディアなどに載るような文章は見たことはありません。
    それは大須の人の中に大須の歴史を発信する人がいなかったことと発信する手段が今の様に発達していなかった事による為だったためでしょうと思う。
    近年はネットの発達あるいはドローンというような物が出来、大須も大分、世の中に知られるように、なってきましたね!
    とても、うれっしい事です。
    今日動画を見ていたら宮守の当主さんがお神輿の掛け声のチョーサイに付い、、良くわからないと言いていたので知っている範囲で書いておこうと思います。
    昔は人が死ぬと棺桶に入り(ガン箱と言った)大須ではそれを神輿に乗せて担ぎお墓まで運び埋葬した。
    今の人はそれは知らないと思う
    見る事がないためですね!
    神輿に乗せると言う事は死人に対して最高の敬意を表すと共に弔意を示したものであった事なのでしょう。
    お祭りの場合神様を祭り神様に最高に敬意を表して掛け声としたものと思います。
    さらにヨーサイ付いては私の勝手な推測ですが、仕事の始まりの掛け声にヨートう、駆けっこの始まりヨードン、船乗り舵にヨースロ(まっすぐでよい)などが有る。
    どれも始まるを意味しているしこれで良し始まるぞの意味があるのではないでしょうか?
    あくまでも自分の勝手な推測です。
    おまけで、葬式の延べに頭に三角の紙を載せますが、あれは天国を表しているそうです。
    今日はここまで・・・





  • #10

    小野寺長生 (水曜日, 01 11月 2023 10:47)

    またまたやって来ました
    おとボケ爺様
    最近の動画をみていたら
    大須や雄勝の歌などなるものが動画に見えるようになってきた
    ならば爺も一丁挑戦してみようかなんちゃて浅はかな考えを起し作ってみますた
    ずぶのド素人なので曲はまだついていませんが歌詞だけ上げてみます
    笑って読んでください

    灯台
    船が行き交う 大海原に
    カモメ泣く泣く 青い海
    時は流れて 故郷(ふるさと)おもう
    人世行路 ゆめ物語
    灯台あかり 何に照らす

    怒涛砕くる 波音に
    恩を忘れず 時き繋げ
    源左衛門や お神輿に
    人生行路 ゆめ物語
    灯台あかり 大須はま

    遠い昔の 恋の花
    運命(さだめ)は この世の道の道
    片道切符 あとまつり
    人生行路 夢の夢
    灯台あかり ゆらゆらと

  • #11

    小野寺長生 (木曜日, 02 11月 2023 17:07)

    大須音頭を書いてみた
    一番だけ載せてみます

    ハァーアーアーア
    大須良いとこ 一度はおじゃれ朝日輝く 灯台岬
    祭り神輿は 海の中
    お江戸そだちで 気が荒い
    担ぐ若衆の 生きの良さ

    2.3も出来ている

  • #12

    小野寺長生 (土曜日, 04 11月 2023 17:47)

    またまた遊びにやって来ました
    11番の文章に繋がってしまったところあり治しておきます

    朝日輝く 灯台岬です。

    今日も一番だけ載せてみます
    大須人
    一、
    海はトロなぎ 天気よし
    アワビ取るなら 大須うみ
    わかめ昆布も 器量よし
    お嫁取るなら おいでよ御座れ
    うぶで純情 おふじ山

    2・3番も出来ました。
    くだらん爺様の遊びです。
    またね!

  • #13

    小野寺 (日曜日, 07 1月 2024 14:46)

    遊びに来ました。
    ご無沙汰です
    年を取ったしまうととても故郷が恋しくなりついついここを覗きたくなり来てしまいます。
    ほんでさァー
    また歌っこ創ったのだから載せるよ!
    思い出
    のんべ居酒屋 ままさんは
    故郷同郷 浜育ち
    飲んでほろ酔い 恋ばなし
    風のうわさは 他人の妻
    人生無常 幸せに

    磯の香が 懐かしい
    故郷の灯台 船が行く
    未練が募る 浜風に
    かもめが泣いて 空に舞う
    人生無常 波の音

    戻り効かない 人生は
    恋ははかない 夢で逢う
    人生行路 酒に載せて
    今宵は酔って 千鳥足
    人生無常 夢しばい

  • #14

    小野寺 (金曜日, 26 1月 2024 16:25)

    またまた遊びに来ました(✿✪‿✪。)ノコンチャ♡
    動画見ていたら八幡様の境内だ映っていました。
    以前八幡神社の前に祠が祭ってあった話をしたと思いますが、
    祠の位置が映っていましたので
    書いておきます
    大きな石蟷螂(向かって右側に)在りました。
    そこ後ろの祠に安部の文字が刻まれている祠がその昔の守り神ではなかったかと思っています
    だ、今の阿部氏は安部一族の証だと証明になるのでは!・・
    素人の見方です!。



  • #15

    小野寺 (日曜日, 17 3月 2024 12:22)

    こんにちは、しばらくぶりに遊びに来ました。
    宜しくです・・・
    今日は雑談よもやま話しのあれやこれやの昔話をしてみたいと思います。
    その昔、大須を切り開いた人々を思い、どのようにして5家の人々がこの未知の浜に住みついたのだろうと思いを寄せる。
    所で、爺様は文章書くにはあまり得意ではないので文章綴に至らない点が多々あると思いますが勘弁勘弁でご容赦あれ!
    と言い訳をしておいたところで、あれやこれやの話しこば致します。
    さてと、大須は年代を追うと古いと言う事が分かります。
    余りよその部落のとはよく分かりませんが、次の様な年代記録から古さが推測できるのでは・・・
    塩釜神社:661年
    白銀神社:714年
    金華山:749~757年(1250年)
    河北 :1260年石碑(石巻で一番古い)
    大須切り開き人:1190~1198年
    となり大須の時代の古さが分かるねぇ~
    こんな古い大須にも探ってみれば、のちの世に伝えて聞かせて置きたい先人の話と大須の部落模様が結構あります。
    昔浜に下がれば大きな石の碑文が有った。
    今でも地震が鳴ったら津波の用意の碑文基あると思いますが、もう一基大きい基碑が立っていました。
    今は阿部議員さんの家の前の道路沿いに移転して立っていると思いますが藤塚智明先生です
    塩釜神社の宮司さんを務め、また歴史家だった様です。
    仙台の博物館に展示されています。
    郷土の誇りにしてもいいのでは・・・
    今日はここまで!おしまいまたね!